太宰治の生家「斜陽館」について

この記事は2017年1月に書いたものです。

「津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、これという特徴もないが、どこやら都会風にちょっと気取った町である。」

太宰治は小説「津軽」の中で青森県北津軽郡五所川原市をこのように説明している。

そんな少し都会風に気取った町五所川原市にある太宰治の生家「斜陽館」を紹介します。

太宰治(だざいおさむ)

引用:太宰治

青森県北津軽郡金木村(現在は合併して五所川原市)出身の小説家。

本名、津島修治(つしましゅうじ)。自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。没落した華族の女性を主人公にした「斜陽」はベストセラーとなる。その作風から坂口安吾、小田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頓派と称された。主な作品に「走れメロス」、「津軽」、「人間失格」などがある。

中学時代から文学に目覚め、弘前高等学校卒業後、東京帝国大学仏文科に入学。政治運動に従事しますが後に再び文学に打ち込み、1933年(昭和8年)に「列車」を『東奥日報』の日曜付録『サンデー東奥』に初めて太宰治の筆名で発表します。

1909年(明治42年)金木の大地主である津島家の6男として生を受けた太宰治は幼少期何の不自由のない生活を送っていましたが、のちに作家を志すにあたって大きなコンプレックスとなってしまいます。

当時はまだ生活が苦しくても石にかじりついてでも、命を削って小説を書く事が美徳とされていた時代でありハングリー精神こそが尊いとする価値観があったために、恵まれすぎている生活を送っている事にひどく悩んでいただろうと小説「苦悩の年鑑」での、「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである。」と言う一文からも感じ取る事が出来ます。

 太宰治記念館「斜陽館」

太宰の父、津島源右衛門が1907年(明治40年)に総工費約4万円(現在の価値で約6億円)をかけて建てた大豪邸です。

お城の様な佇まいで中は和洋折衷のバランス感が素晴らしい建物です。

米蔵にいたるまで日本三大美林の青森産のヒバを使い、1階は11室278坪、2階は8室116坪、付属建物や泉を配した庭園など合わせて宅地約680坪の豪邸です。

この邸宅も戦後に津島家が手放す事となり、1948年にに角田唯五郎氏が住宅として買い取る事で2年後に旅館「斜陽館」として開業します。そして1996年までの46年間の間旅館として太宰ファンに親しまれてきました。

その後、1996に旧金木町(現在は合併して五所川原市)が買い取り、1998年に太宰治記念館「斜陽館」として開館し現在に至ります。

また、2004年(平成16年)には国の重要文化財に指定されました。

 斜陽館の内部

玄関をくぐって斜陽館の館内へ入っていくと奥まで続く土間が広がっています。それだけでこの建物の大きさがとんでもないと言う事が分かります。

そして、順路通りに奥に進むと重厚な造りの中藏と米蔵があり、米蔵の方では太宰治の作品に関する展示や影響を受けた井伏鱒二の作品の一文などが展示されています。

吹き抜けになっている板の間から靴を脱いで上がると長いヒバの床の通路が見えます。この場所が太宰がこの家で最も好きな場所だったと言います。

当時、父や兄しか入ることを許されていない部屋もあったこの大きな家の中で、誰でも出入りできるこの場所がお気に入りだったようです。

太宰が、津島修治として産声を上げたのはこの10畳ほどの叔母の部屋でした。

太宰は「二十世紀旗手」の中でこの部屋を小間と表現していますが私は10畳ワンルームのアパートで生活しています・・・

斜陽館では生前太宰がよく着ていたマントのレプリカを着ることができます。一旦落ち着いてマントを着て記念撮影をしましょう(笑

奥にある「文庫蔵展示室」では初版本や原稿のほかに実際に着用いていた服や手紙などが多数展示されています。

また、 1階は18畳の「仏間」を中心にして15畳の「座敷」が2間、囲炉裏のついている15畳の「茶の間」と4つの和室からなっています。それぞれの襖を外せば63畳の「大広間」になるしくみで父源右衛門時代にはよく宴会が開かれていました。

津島家では金融業も行っていたようで地元の小作人にお金を貸していた窓口と金庫も当時のまま残っています。

洋風なつくりの階段で2階に上がると先ほどまでの和室とは異なり洋室が目に入ります。

明治末期、時代の風潮を受けて和洋折衷の様式がとられたとなっており、客間は洋室で家族や使用人が暮らすのは和室と分けられていました。やはり本当に安らげるのは畳の上だったみたいです。

ここは太宰の母夕子(たね)の居室だった部屋です。この部屋は書斎とも呼ばれていて兄弟が集まって遊んでいた場所でもあります。

襖に書かれている漢詩の中に斜陽と書かれていることから太宰ファンの間では「斜陽の間」とも呼ばれています。

父源右衛門や長男文治が使用した主人室です。これまでの豪華なつくりの部屋と違いとても質素な部屋ですが、議員であるため東京での暮らしが多い事などの理由で質素な部屋になっています。

襖に金箔をあしらった豪華な客間や、

右から春夏秋冬の風景が書かれた襖絵の四季を感じる客間などがあります。洋室もそうですが客人をもてなすときは豪華に。普段の生活は質素に。(十分すぎるほど豪華ではあるが)と言う生活をしていた事が垣間見れる部屋の作りです。

趣のある部屋を通り、

国会議事堂のにある階段の様な階段を下りると1階の大広間に出て斜陽館を1週したことになります。

家の廊下とは思えないほど長く長く続く廊下も注目ポイントです。

太宰治記念館「斜陽館」 – 太宰ミュージアム

あとがき

太宰治の名前は中学校に上がる頃には誰しも一度は耳にする名前だと思います。

青森と言う本州最北端にあるが故の行った事のない県ランキングトップ3の常連ではありますが、春は桜が綺麗なので観光ついでに一度訪れてみてはどうでしょうか??

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